放蕩の果てに才能を開花させた“琳派の旗手”・尾形光琳

放蕩の果てに才能を開花させた“琳派の旗手”・尾形光琳

「紅白梅図屏風」(制作年不詳、国宝、MOA美術館蔵)画像提供:MOA美術館 Ogata Kōrin, Public domain, via Wikimedia Commons

絢爛豪華な「紅白梅図屏風」や「燕子花図屏風」で知られる尾形光琳。その優雅な作風からは想像しがたいが、若き日の光琳は莫大な遺産を使い果たし、女性問題にも事欠かない放蕩息子だった。しかし、そんな奔放な生き方の果てにこそ、独自の美意識と創造力が芽吹く――。

京都の名門呉服商「雁金屋」に生まれ、江戸での挫折を経て自らの芸術を確立した光琳は、「琳派」の礎を築きました。華やかさと侘び寂び、遊びと内省が共存するその人生と作品の軌跡をたどります。

『ヤバい絵 狂気と創造―死ぬまでに観るべき日本の名画』(実業之日本社・2024・定家菜穂子 著)より一部抜粋・再構成してご紹介します。

尾形光琳(おがたこうりん) 放蕩の果てに才能を開花させた男(1658~1716年)

「紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)」

 まず、目に飛び込んでくるのは中央の大きな川。

 そのゆったりとした流れは抽象化され、優雅な文様となっている。

 画面手前でその川幅は屏風の四分の三ほどを占めるが、画面奥に向かって極端に細くなる。

 川上と川下との幅の落差が空間をゆがめさせ、流麗な曲線で表された流水文様を眺めていると、無限の宇宙空間に引き込まれるような、不思議な感覚に襲われる。

 この屏風は婚礼儀式のために依頼され、新郎新婦の背景を飾ったのではないかと、中部義隆氏が指摘されている(『別冊太陽232 尾形光琳 「琳派」の立役者』、平凡社)。

 新郎新婦が結びつくことによって、家系が連綿と続いていく。川は絶えることなく流れ続ける永遠の象徴であろう。

 川の両脇には、咲き始めた紅白の梅が配され、デフォルメされたその幹には、宗達作品から学んだたらし込みを使用することによって立体感を出している。

 凜とした早春の清々しい空気までもが感じられるようだ。

 川と紅白の梅のみというシンプルな図柄だが、その三つが絶妙なバランスで配置され、金地の背景が華やかさを演出する。

 川の流れに貼られた銀箔は、酸化して黒くなっている。

 この部分に関して、もとは銀色であったという説と、もともと酸化させた銀箔を用いたという説があるが、私は後者を支持する。

 黒くなった銀箔を使用することによって、背景の金地を引き締め、重厚感、侘(わ)び寂(さ)びた雰囲気を醸し出している。

 絢爛豪華(けんらんごうか)でありながら、枯淡な風情も兼ね備える、光琳の最高傑作。

 このような優雅で美しい作品を残した光琳。

 さぞかし、上品で真面目な人物であろうと思いきや、意外や意外、相当な遊び人である。莫大な資産を相続しながらも、数年で使い果たし、女性問題まで引き起こしている。

 どうしようもない金持ちの道楽息子だった光琳は、何故、絵師として大成できたのだろうか。

華麗なる一族

 京都有数の呉服商「雁金屋(かりがねや) 」の次男として生まれた光琳。

 その作品において、出自の影響は非常に大きい。恵まれた環境によって、美的センスが磨かれ、才能が開花したのだ。

 雁金屋は、光琳の曽祖父の道柏(どうはく)が、京都に小さな店を構えたのが始まりであったが、本阿弥光悦の姉の法秀を妻として迎え、京都有数の名家に名を連ねることとなった。

 本阿弥光悦は、書、陶芸、漆芸、能楽、茶の湯などで、後世の日本文化に大きな影響を与えた人物で、徳川家康から京都の鷹峯の地を拝領し、芸術村を築いたことでも知られる。

 雁金屋の顧客には、豊臣秀吉の側室の淀君、徳川秀忠の娘で後水尾(ごみずのお)天皇の女御(にょうご)として入内した和子(後の東福門院)などが名を連ねる。

 洗練されたデザインの最高級の着物を目にして育った光琳が、それらの影響を受けるのは当然であろう。

 また、天皇家や公家たちとの繋がりを持ち、書や絵画、能などをたしなんだ光琳は、その貴族趣味を作品に反映させたのである。

 国宝の「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」(根津美術館蔵)も、着物の模様のようなデザイン性の高さが際立つ傑作。

 金地に燕子花が連続して表現され、アップで見ると単純な図のようだが、離れて眺めると、紅白梅図屏風と同様、背景に何も描かれていないことによって、無限の広がりが感じられる。

 光琳四十代中頃、法橋叙任直後頃に制作された、もと西本願寺の伝来品。

放蕩と困窮

 京都有数の呉服商「雁金屋」の次男だった光琳は、父の宗兼が亡くなると、家屋敷二か所、能道具一式、道具類、大名貸しの証文など、莫大な遺産を手にする。光琳、数えで三十歳。

 しかし、十年も経たないうちに、経済的に困窮する。

 大名貸しの多くが取り立て不能となったのが大きな要因であったが、華やかな生活をしていた光琳は、女出入りも激しかった。

 当時の光琳の暮らしぶりは、小西家に伝来した資料によって、かなり詳細なところまでわかっている。小西家というのは、光琳の妾腹(しょうふく)の子どもの養子先である。

 父親が亡くなった年に、長子である次郎三郎を養子に出したのを手始めに、その二年後には、細井つねから、子・元之助の認知を求めて訴えられ、家屋敷などの財産を譲っている。

 また、光琳は四十代初め頃に多代と結婚しているが、婚姻前後にも、妾との間に複数人の子を成している。

 金に窮した光琳は、光悦の硯箱(すずりばこ)などを質に入れたり、屋敷などを担保にしたりもしている。

 生まれた時から、贅沢な暮らしをしてきた光琳は、要するに、節約生活をすることができなかったのだ。

 弟の乾山にまで借金をして、その返済の督促と財産整理の勧告も受けている。

 親の遺産で遊び呆け、挙げ句の果てはいくつもの女性問題に親族への借金。典型的な金持ちの道楽息子である。普通だったら、そのまま没落していくところだが、光琳はそうはならなかった。

 絵師を志し、その才能を開花させていったのだ。

可愛げで世を渡る

 遊び人で軟弱そうに思われる光琳だが、自身の家柄に対する誇りは、相当高かったと思われる。

 日本文化の中心的人物、本阿弥光悦とも繋がる、京都有数の老舗呉服商「雁金屋」の次男として生まれ育ったからには、当然であろう。

 商才があったら、傾いた家業を盛り返すために奔走したであろうが、金銭には無頓着な光琳にそのような芸当は望むべくもない。

 このままで終わるわけにはいかない、という強い信念が絵師の道へと、光琳を駆り立てたのである。

 三十代半ばと、遅いスタートではあったが、光琳は、わずか十年あまりで法橋(ほっきょう)に叙されている。法橋とは、第一位法眼に続く第三位の僧位だが、中世以降は、絵師、仏師、連歌師などにも僧位に準じて与えられた称号である。

 実は、法橋叙任の裏には、光琳の周到なる根回しがあった。

 五摂家の一つである二条家の当主、綱平(つなひら)の許へ再三伺候(しこう)していたのだ。多い年には三十五回、法橋叙任の前年にも二十九回、ご機嫌伺いに行っている。

 生家の縁故や人脈を最大限に利用して、法橋位を手に入れた光琳。

 その優雅な作品からは想像しがたいが、意外と策士である。

 法橋位を獲得し、絵師として箔を付けた光琳は、江戸を目指す。ターゲットは江戸屋敷を構える大名家。

 京都で光琳を公私にわたり援助していた銀座年寄役の中村内蔵助(くらのすけ)を頼り、かれの紹介によって、複数の大名家に参上し、屏風絵などの注文を受け、中でも酒井家から十人扶持、翌年には二十人扶持を受けている。

 約百年後、この名門酒井家から江戸琳派の祖である酒井抱一が出ることになる。

「布袋図(ほていず)」

 室町時代から、禅宗系の水墨画において、親しまれてきた画題である。

 通常、粗末な衣をまとって、大きなお腹を出し、杖と袋を携えた姿で描かれるが、光琳の場合、成人男性ではなく、三頭身の童子のように表現している。

 子どものように無邪気で、楽しげな布袋さん。

 楽しいこと、面白いこと、女性が大好きで、莫大な遺産を蕩尽し尽くした光琳は、このような人物だったのではないだろうか。

 どうしようもない道楽息子で、周囲の人々には迷惑をかけ、文句を言われながらも、その楽しげな雰囲気や才能によって、最終的には受け入れられ、愛されていたのだ。

勝負は自分の土俵で

 江戸の水、武家社会は、光琳には合わなかったようだ。

 京都の知人に宛てた手紙の中で、光琳は大名仕えの辛さ、収入の低さについて、ぼやいている。

 生まれ育った京都を離れ、江戸に暮らした光琳は、中村内蔵助の後ろ盾はあったものの、江戸は完全にアウェーであり、己の卑小さを実感したことだろう。

 京都では老舗呉服商「雁金屋」の看板があるが、江戸ではそれが通用しない。

 お抱え絵師として成功することを目指していたようだが、幕府御用達の狩野派を前に、その鉄壁の守りを崩すことはできなかった。

 光琳の優雅でおおらかな画風と豪壮な狩野派と、どちらが武家に好まれるか、言うまでもないだろう。

 私的な空間であれば問題ないが、公的な武家屋敷では、対外的に武家としての体面を保たなければならない。武士にとっては、面子が命である。

 自分の特質や世界観と武家好みとの乖離に光琳は気付き、江戸を離れる決意をしたのではないだろうか。

「竹(たけ)に虎(とら)図(ず)」

「竹に虎図」(京都国立博物館蔵)画像提供:京都国立博物館 Ogata Kōrin, Public domain, via Wikimedia Commons
「竹に虎図」(京都国立博物館蔵)画像提供:京都国立博物館 Ogata Kōrin, Public domain, via Wikimedia Commons

 竹に虎は、室町時代から好まれた中国伝来の画題。力と威厳の象徴として武家に好まれた。

 だが、光琳が描くこの虎には、強さも威厳も全く無い。

 この図は、古典的モチーフが光琳流に翻案(ほんあん)されたもので、ゆるさ、かわいげ、ユーモア等、遊びを極めた光琳の特質が詰まった魅力的な作品。

 京都に戻った後、1710年代前半に制作されたと推定されている。

 江戸での暮らしは、光琳に自分の強み、長所、目指すべき方向性について、より強く認識させたようだ。

自分らしさ

 結局、四年余りで江戸滞在を切り上げ、京都に舞い戻った光琳。

 この期間、目立った傑作が見られないため、江戸において、取り立てて成果を得られなかった光琳が、尻尾を巻いて京都に逃げ帰ったかのように思われるかもしれない。

 だが、光琳にとって、江戸滞在は非常に有益な経験であった。

 江戸から京都に舞い戻った光琳は、水を得た魚(うお)のように、次々と傑作を生み出すのだ。

「紅白梅図屏風」もその中の一つである。

 江戸滞在中、光琳は大名屋敷で多くの狩野派の屏風を目にしたことであろう。

 狩野派の作品を通して武士の精神性にも触れた結果、その影響が同図にも表れているのだ。

 凛とした気高さ、緊張感が画面にみなぎっている。

 今作品は、武家文化と貴族趣味とが融合された、光琳の集大成ともいえよう。

 また、同図は、金地の背景によって一見すると華やかだが、黒ずんだ銀箔の流水部分は寂しげな印象を与える。

 川という生命の根源である水の流れを表現しながらも、自然を前にした人間の命の儚(はかな)さを感じさせるのだ。

 遊びをそれだけで終わらせず、芸術の域にまでに昇華させた光琳。

 それを可能にしたのは、冷徹なまでの内省だった。

 京都の名門「雁金屋」の看板を一旦捨て、己の身一つで江戸へ出て勝負し、自分らしさ、強みを見つめ直したのだ。

 日本の絵画は、余白を重要視してきた。

 すべてを描ききるのではなく、見る者に想像の余地を与える。

 その結果、無限の芳醇な世界が生まれるのだ。

 それは、絵画世界のみでなく、実生活にもあてはまるのではなかろうか。

 光琳の場合も、遊蕩三昧、遊びの延長上にあった芸が身を助け、芳醇な作品を生み出す源となった。

 それを考えると、必ずしも遊びは悪ではない、むしろ、無からものを生み出すためには必要不可欠な要素ではないか、とさえ思えてくる。

 遊び、ゆとり、余白。

 今の日本には、それらが足りないのではないだろうか。

 光琳作品を見ていると、そんな考えが頭をよぎる。

 

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