「同業者」として北斎に向き合う――信濃川日出雄インタビュー
北海道札幌市を拠点に活動する漫画家・信濃川。新潟の農村で育まれた原風景と、漫画という表現に至るまでの道のりは、やがて「山」を描き続ける現在の創作へと結実した。デザインや音楽など多様な表現を経た経験、そして商業作家としての現実的な選択。その積み重ねの先にあるのが、長期連載『山と食欲と私』である。さらに今回の「オマージュ北斎2」では、葛飾北斎を「同業の先輩」と捉え直し、自身の制作と地続きの感覚で作品に向き合ったという。制作環境や技法、そして今後の展望まで、創作の現在地を聞いた。 農村の原風景と「漫画家」への自然な帰着 ――表現者としての歩みを振り返り、幼少期の環境や初めて熱中した制作体験など、現在の画風の根底にある「原風景」についてお聞かせください。 信濃川 現在は北海道札幌市在住ですが、生まれは新潟県の農村部です。大学進学を機に実家を出るまでの18年間、田んぼや野山に囲まれたのどかな風景の中で過ごしました。都市部から遠く、繁華街や商店街も近くにない環境で、川や山で遊んだり、自転車で走り回ったり、野球やサッカーをして過ごしていました。家の中では絵を描いたり、ミニ四駆やファミコンに熱中していました。 ――「描くこと」との出会いはいつ頃だったのでしょうか。 信濃川 「漫画」を描き始めたのは小学校2年生の頃です。ノートに落書き程度のものでしたが、絵と言葉で物語を動かしていくことに夢中になりました。夢中になれるだけの時間的な余白、つまり他にやることがなく暇だったことも大きかったと思います。描いたものを人に見せるうちに「絵がうまい」と褒められることが増え、それが自分のアイデンティティーになっていきました。小学校の卒業文集には「漫画家になる」と書いています。 ――高校時代には音楽にも取り組まれていたそうですね。 信濃川 高校では音楽に目覚め、ギターを弾き、自作曲を作り、バンドも組みました。少ないお小遣いでCDを買うような時代でしたが、音楽に関わる映像作品や雑誌、アルバムジャケットなどを見るうちに、デザインという仕事に興味を持ち、デザイナーを志すようになりました。 ――大学進学後、どのように進路を定めていったのでしょうか。 信濃川 筑波大学芸術専門学群視覚伝達デザインコースに進学し、グラフィックデザインやアートディレクションを学びました。在学中は写真、映像、油彩、現代アートなど幅広く挑戦しましたが、大学3年生の時に進路を「漫画家」に絞りました。ただ、「表現を選んだ」というよりも、経済的な理由が大きかったです。 ――経済的な理由とは具体的にどのようなものでしょうか。信濃川 当時は就職氷河期で、デザイナーという仕事に自分は不向きだと感じていましたし、絵画やイラストでどう収益を上げて自立するのかも見えませんでした。その点、「漫画賞に応募し、賞金を得て、連載を得て、コミックスで印税を得る」という道筋は単純で明確に感じられました。 ――プロとしてのスタートについて教えてください。 信濃川 大学休学中の2001年に初めて雑誌に掲載され、大学最終年の学費はその原稿料で支払って卒業しました。その後もデザインやイラストの仕事はアルバイト的に続けていましたが、2005年以降、商業漫画雑誌での連載や印税で生計を立てられるようになってからは漫画を専業としています。結果として、小学校の卒業文集に書いた夢の通りの道を歩むことになりました。学生時代にデザインやアートに触れた“寄り道”は、視野を広げるうえで大きかったと思います。 北斎を「同業の先輩」として読み替える視点 ――今回のテーマ「オマージュ北斎2」について、どのように向き合われましたか。信濃川 企画のお話をいただくまでは、北斎という存在は遠い時代の偉人という印象でした。しかし改めて作品や経歴を学び、今年のはじめに東京を訪れて彼が過ごした東東京(旧江戸)の空気を感じるうちに、その認識が変わりました。今では「同業者の先輩なのではないか」と感じるほど、非常に親近感を持っています。 ――その「同業者」という感覚について、もう少し詳しく教えてください。 信濃川 版元のオーダーと市場のニーズに応え、チームで制作し、庶民に向けて手頃な価格で作品を大量生産するという点は、まさに漫画の商業出版そのものです。北斎は富嶽三十六景や富嶽百景で約150点の富士を描いていますが、私は「山と食欲と私」で10年間にわたり、コミックス20巻分、2500ページ以上の山の風景と物語を描き、累計250万部以上を販売しています。その部分だけを見れば、両者の仕事の違いは何なのか、考えるほどわからなくなりました。 ――北斎という存在をどのように捉え直されたのでしょうか。 信濃川 北斎は純粋美術も手がけていますが、商業作家として「安く見られる」ジレンマや、そこから生まれる矜持もあったのではないかと想像しています。そうした点も含め、「同じ仕事をしている人」として捉え、「北斎先輩」と親しみを込めて呼ぶようになりました。 ――制作にあたって、特別なアプローチはあったのでしょうか。信濃川 むしろ逆で、「いつもの自分の仕事をそのまますることがオマージュになる」と考え、特別なことはしないようにしました。あえて言えば、構図を取る際に幾何学的な裏付けをいつもより丁寧に意識した程度ですが、それも普段から行っていることです。 ――北斎との表現上の違いについてはどのように感じていますか。 信濃川 例えば北斎は江戸から見えた富士を描く際、本来見えるはずの丹沢を省略しています。描きたいものだけを描いている、つまり脚色しています。一方で私の場合、『山と食欲と私』の作品世界では、実在する山に関しては位置関係を正確に描くよう努めているため、丹沢の存在を省略できません。ただ、今回は北斎に倣って、架空の風景を堂々と描きました。 ――今回の作品で新たに取り入れた点はありますか。信濃川 販売作品として、デジタルデータを和紙に出力していただいた点です。普段のコミックスやポスターではコート紙が一般的なので、和紙特有の風合いが加わっていると思います。 漫画制作を基盤とした技法と北斎的タッチの融合 ――素材や技法について、どのような制作プロセスを経ているのでしょうか。信濃川 基本的には普段の漫画制作と同じ手法です。紙に下書きをし、漫画原稿用紙にペン入れを行い、スキャン後にPhotoshopで着彩します。そのデータを和紙にジークレー印刷し、最終的に手彩で加筆して完成させています。特別な伝統技法は用いていません。 ――今回、北斎へのオマージュとして意識された点を教えてください。 信濃川 野山の描き方や描線、雲の模様、グラデーションの使い方などに北斎流のタッチを取り入れました。「現在連載中の『山と食欲と私』の主人公が立つ世界を、北斎流で描いたらどうなるか」というコンセプトです。 集中を生むアトリエ環境と移動し続ける生活 ――現在の制作環境について教えてください。信濃川 自宅から徒歩5分の場所にある築50年の2階建ての家屋をリノベーションし、アトリエとして使っています。毎朝9時に“出勤”し、17時に“退勤”する生活で、基本的に一人で作業し、昼食は弁当を持参しています。 ――その環境は制作にどのような影響を与えていますか。信濃川 リノベーションには2年かかり、本格的に使い始めて半年ほどですが、自宅の一室で作業していた頃よりも深い集中ができるようになりました。子どもがいる環境で集中を確保するのはやはり大変だったのだと実感しています。DIYも含めたリノベーションは、制作環境を整え、「集中」を得るための取り組みでもあります。 ――日常の制作活動についても教えてください。 信濃川 机での作業に加え、全国各地への登山取材も重要な仕事です。10年以上、季節ごとに登山道具を背負って山を訪れ、その体験を漫画に落とし込んでいます。2001年にデビュー後、東京に約10年、その後札幌に移住して15年ほどになりますが、その間に計9回引っ越しをしています。 ――生活環境を変えることについて、どのように考えていますか。 信濃川 必要に迫られてという面もありますが、新しい刺激を得るためにも積極的に環境を変えてきました。北斎も引っ越しが多かったようですが、自分の人生に飽きないためにも、目の前の景色を動かしていくことは大切だと感じています。 山からその先へ、描き続けるための拡張 ――今後の展望についてお聞かせください。 信濃川 デビューから25年、キャリアの半分近くを「山の漫画」に費やしてきました。現在の連載は続きますが、機会があれば山以外を題材にした作品や、絵画作品にも挑戦したいと考えています。学生時代に油彩やアート制作に触れた際の「やりきれていないこと」が、自分の中に未練として残っているのだと思います。 ――最後に、鑑賞者へのメッセージをお願いします。 信濃川 北斎は90歳を過ぎても描き続けようとしていました。私もまだまだ続けたいと思っています。今回の作品は「壁に長くかけてもらえる」ことを意識し、激しさを抑え、生活空間に馴染むように制作しました。漫画でも同じですが、手にした方の日常が少しでも豊かになれば嬉しいです。 執筆:月刊美術プラス編集部
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