反骨の浮世絵師・喜多川歌麿 幕府に挑み、美人画に“狂気と自由”を描いた男
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『歌まくら』(1788年、第10図「茶屋の二階座敷の男女」、ヴィクトリア&アルバート博物館蔵)By Kitagawa Utamaro - British Museum, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=55897465
浮世絵師・喜多川歌麿――その名は華やかな美人画や春画で知られるが、その筆の裏には幕府への反骨と、底辺で生きる女性たちへの深い共感がありました。
書籍『ヤバい絵 狂気と創造―死ぬまでに観るべき日本の名画』(実業之日本社・2024・定家菜穂子 著)は、そんな歌麿の知られざる素顔に迫ります。
出版統制に抗い、自由な創作を貫いた気骨の絵師。その背景には、身分差の狭間に生まれた複雑な出自、そして庶民への眼差しがありました。
彼の狂気と創造の軌跡を『ヤバい絵 狂気と創造―死ぬまでに観るべき日本の名画』より一部抜粋・再構成してご紹介します。
喜多川歌麿 謎の反骨絵師(1753?〜1806年)
『歌まくら』
あわただしい昼下がりの逢瀬。
赤い襦袢に縁どられた臀部、薄絹の下の足がなまめかしい。
離れがたいと身を寄せ合いながらも、女性の髪の向こうに見える男性の目は、冷静である。心はすでに目の前の女性にはなく、日常、仕事へと移っているようだ。
天明八年(一七八八)に刊行された春画本で、版元は蔦屋 重三郎(つたやじゅうざぶろう)。
扇子には、西行の和歌をもじった宿屋飯盛の狂歌〈蛤にはし(嘴)をしっかりはさまれて 鴨立ちゆかぬ秋の夕ぐれ〉が書かれている。
歌麿という名を聞くと、春画や美人画を思い浮かべる方が多いだろう。
色気たっぷりの画風から、女好きのナンパな性格かと思いきや、意外や意外、気骨のある人物である。
厳しい出版統制のもと、それに反発するかのように、当局を刺激するような錦絵をたびたび出版したあげく、手てぐさり鎖の刑に処せられている(一説には入牢したとも)。
また、歌麿のプライベートについては、ほとんど何も伝わっていない。
何故、歌麿は幕府に対して挑発的だったのか。そして、どのような人物だったのだろうか。
江戸幕府に対する反抗心
享和三年~文化元年頃(一八〇三~〇四)、歌麿は、読本『絵本太平記』を題材にした「太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)」を発表して大評判をとる。
しかし、文化元年(一八〇四)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)をもじった作品「真柴久吉」で手鎖の刑に処せられてしまう。(『絵本太平記』も絶版)
江戸幕府は、織田信長、豊臣秀吉以降の実在した武士を錦絵で描くことを厳しく禁じていたからである。
それ以前から、蔦屋重三郎と、かれにプロデュースされて人気絵師となった歌麿は、江戸幕府から目を付けられていた。
その影響力が大きくなるにつれ、江戸幕府転覆をはかる勢力に利用されることを恐れたのかもしれない。
寛政三年(一七九一)には、山東京伝洒落本(さんとうきょうでんのしゃれぼん)で、本人は手鎖五十日の刑、版元の蔦屋重三郎も財産半分を没収される。
その後も当局は、一枚絵に遊女以外の女性の名を入れること、名前を絵で暗示することを禁止するなど、歌麿と蔦屋重三郎を狙い撃ちにするかのような規制を次々と行っている。
二人にとって逆風が吹く中、寛政九年(一七九七)に、蔦屋重三郎が亡くなり、寛政十二年(一八〇〇)には、歌麿の代名詞である女性大首絵さえも禁じられてしまう。
錦絵へのこだわり
歌麿に、逃げ道はなかったのだろうか。
そんなことはない。錦絵を捨てて肉筆画に専念する、という方法もあったのだ。
浮世絵版画は大量生産、薄利多売。画工も職人にすぎず、その画料も低かった。
歌麿も、そこから出発しているが、人気が出てくると、富貴の人々から依頼され、肉筆画を描いている。
肉筆画は一点もののため画料が高い。しかも、当局の目が届かないので、どんな画題でも自由に描くことができる。
歌麿ほどの画工になれば、規制の厳しい錦絵から手を引いて、肉筆画に専念することもできたはずだ。
実際に歌麿と同時期に活躍した武家出身の浮世絵師、鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし) は、寛政十年(一七九八)頃から、そのように方向転換している。
歌麿も、錦絵から撤退しようとした時期があったようだ。
栃木から歌麿の肉筆画が数点見付かっていることから、田辺昌子(たなべまさこ)氏は、寛政の改革下で思うように創作活動ができないため、歌麿は実際にそこへ赴いてそれらを制作したのではないかと述べられている(『もっと知りたい喜多川歌麿』、東京美術)。
けれども、歌麿は肉筆画への方向転換を良しとせず、結局、晩年まで錦絵を出し続け、手鎖の刑にまで処せられている。
自由に絵を描き、大金を得る方法があったにもかかわらず、何故、歌麿はそれほどまでに錦絵にこだわったのだろうか。
出生の秘密
歌麿が錦絵にこだわった理由。それは、歌麿の出生に関係があるように思われる。
何故なら歌麿のプライベートにまつわる逸話が全く残っていないからである。
歌麿の生年などは未詳。出生地は江戸、川越、京都などの説がある。北川氏の出で俗称勇助、一説には市太郎ともいわれている。
大半の浮世絵師も、その出自ははっきりしないので、歌麿がそうであっても不思議ではない。
蕭白は大酒飲みで大言壮語を吐く、北斎は掃除嫌い等、有名な絵師には、エピソードは付き物である。
だが、歌麿の場合、有名絵師になってからのエピソードまでもがほとんどないのだ。
歌麿について、わかっているのは、公式記録が、明和七年(一七七〇)の挿絵が最初だということ。門人は、式麿、月麿、藤麿など、二十名だということ。
歌麿が亡くなった後、その妻が二代目歌麿に嫁したとされているが、曲亭馬琴は『後の為の記』で、歌麿に妻子はいないと記している。
歌麿ほどの有名人で、しかも弟子が二十名もいながら、妻子がいたかどうかさえはっきりしないのは、あまりにも不自然だ。
〈青楼(遊郭)の画家〉と称されるほど、吉原の遊女を数多く描いた歌麿。常に美しい女性たちに囲まれていたはずだが、浮いた話一つない。
ちなみに、琳派の絵師である尾形光琳は、子どもの認知問題で訴えられ、その公式文書も残っている。
女性問題はともかく、妻子についてまで判然としないのは、その存在を隠していたとしか思えない。
では、何故、妻子の存在を隠していたのか。
それは、命を狙われる危険性があったからではないか。
歌麿の父親はかなり身分の高い武士で、母親は下級遊女。母は歌麿が生まれた時、もしくは幼い時に亡くなった。
母親が亡くなった後も、本妻に男児がいたため、父親に引き取られることはなかったが、その男児が長じて子を成す前に亡くなり、跡継ぎ問題で、お家騒動に巻き込まれる可能性があったため、歌麿は妻子の存在を隠していたのではないだろうか。
幕府御用達の狩野派に入門
歌麿が、どのような経緯で絵の道に進むことになったのか、それも不明だが、少年時代、狩野派の町絵師である鳥山石燕(一七一二~八八)に師事し、石要(しゃくよう)と名乗っていた。
明和七年(一七七〇)に出された句集『ちよのはる』に、「少年 石要画」と署名された茄子の図が挿絵として掲載されている。
歌麿と狩野派。意外な組み合わせだが、「画本虫撰(えほんむしえらみ)」(天明八年、一七八八)などからも、歌麿が美人画だけでなく、基礎をしっかり学んでいたことがわかる。
狩野派から浮世絵に方向転換した後も、師匠とは良好な関係を保っていたようで、「画本虫撰」の跋文を石燕が書いている。
別の章で書いている広重は、武士であるにもかかわらず、幕府御用達の狩野派ではなく、最初から浮世絵師のもとに弟子入りした。
歌麿も同じように、浮世絵師の師匠につくこともできたはずだ。それなのに、狩野派の門を叩いたのは、武士である父親への思慕の念からではないだろうか。
底辺で生きる最下級の遊女たちへの共感
「北国五色墨(ほっこくごしきずみ) てっぽう」
胸を露わにし、懐紙を口にくわえた女。髪も乱れているが、男の欲情を受け止めながらも、淡々と職務をこなしている。そのまなざしには、快楽も絶望もなく、ただただ静かだ。苦界に身を沈めながらも、悟った聖者のような凛とした雰囲気を醸し出している。
〈北国〉とは、吉原の異名で、江戸の北に位置することからきている。
吉原で働く女たちが描かれた五枚揃いの大首絵だが、そのうちの三枚で、下級遊女たちが取り上げられている異色シリーズ。
蔦屋重三郎が写楽に肩入れし、その役者絵を売り出すことに注力している間に、歌麿は他の版元から作品を出している。このシリーズの版元は伊勢孫。
あまり一般受けする画題だとは思われないが、新機軸を打ち出したい版元と、歌麿の強い意向とによって、出されたものだろう。
庶民の手の届かない高級遊女である「おいらん」、芸を売る「芸妓」はともかく、最下級の遊女が画題として取り上げられるのは珍しい。
吉原の路地裏には長屋の下級遊女屋「切きり見み
世せ」があり、そこには梅毒に犯されている遊女も多かった。当たれば死ぬということから、「鉄砲見世」、「鉄砲女郎」との蔑称があるほど。
歌麿は、何故、人々が蔑む最下級の遊女を、わざわざ画題として選んだのだろうか。
作品からは、彼女たちを卑しむ気持ちは全く感じられない。それどころか、むしろ共感さえ見受けられる。
その点から、歌麿の母親は、そのような境遇に置かれていたのでは、との推測が生まれる。
歌麿が絵の道を志した当初、父親への思慕の念から、幕府御用達の狩野派に入門した。
だが、成長するにつれ、武家社会の実態を知り、また、その家に受け入れらなかった母の苦しみ、哀しみがわかるようになった。
その上、絵師として活躍するようになってからは、自分と蔦屋重三郎を目の敵にするかのような、たび重なる出版統制。
その結果、武家社会、幕府への遺恨へと発展していったように思われる。
蔦屋重三郎によって才能が開花
歌麿は、安永四年(一七七五)頃から、北川豊章の名で活動を始め、役者絵や武者絵、読本、洒落本や黄表紙などの挿絵を描いていた。
歌麿の名を用いるようになったのは、天明元年(一七八一)頃から。
歌麿が蔦屋重三郎とどのように出会い、ともに仕事をするようになったか、その経緯は伝わっていない。
蔦屋が出版界の中心であった日本橋、しかも老舗の店が軒を連ねる通油(とおりあぶら)町に出店した天明三年頃(一七八二)に、歌麿も美人画の一枚絵をまかされるようになっている。
重三郎と組むようになってから、歌麿の作品の質が変わった。錦絵において、版元の影響力は大きく、その意向が作品にも反映されるからだ。
また、歌麿は天明(一七八一~八九)初期から寛政三年(一七九一)頃まで、重三郎の元に寄居していたと考えられている。
重三郎は歌麿の才能に惚れ込み、その最高の活かし方を模索する中、寛政四年(一七九二)、蔦屋から史上初の美人大首絵(おおくびえ)「婦人相学十躰」が刊行されて大ヒット。
それまでは、役者の大首絵はあったものの、美人の大首絵は誰も出していなかった。
歌麿は重三郎という最高のプロデューサーと組むことによって、その才能を開花させたのだ。実に、歌麿の錦絵の八割以上を重三郎が手掛けている。
美しく着飾った女性を描く一般的な美人図ではなく、歌麿は女性たちの素顔や飾らない美しさ、その内面を描こうとした。
吉原で育ち、遊女屋に顔がきく重三郎の手引きで、歌麿は、昼見世が始まる前など、遊女屋の舞台裏、遊女たちの普段の様子もつぶさに観察したことだろう。吉原の高級遊女についても、客には見せることのない日常生活の一コマを、歌麿は切り取っている。
「婦人相学十躰」という絵のタイトルからも、歌麿が自身の人相見の能力に自信を持っていたことがわかる。
女性の裏も表も知り尽くし、心の内側までも描こうとした歌麿。
だが、自身の素顔は明かさない、ミステリアスな絵師である。