危険を冒して写楽を世に送り出した“江戸のプロデューサー”・蔦屋重三郎
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左「三代目大谷鬼次の江戸兵衛(さんだいめおおたにおにじのえどべえ)」 写楽(1794年、重要文化財、東京国立博物館蔵)
By Sharaku - Metropolitan Museum of Art, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=119732
右「初代市川男女蔵の奴一平(しょだいいちかわおめぞうのやっこいっぺい)」 写楽(1794年、重要文化財、東京国立博物館蔵)
By Sharaku - This file was donated to Wikimedia Commons as part of a project by the Metropolitan Museum of Art. See the Image and Data Resources Open Access Policy, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58760737
浮世絵ブームを陰で支え、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった天才を世に送り出した蔦屋重三郎。ただの敏腕版元ではなく、厳しい出版統制が敷かれた江戸時代にあって、表現の自由を賭けてリスクを背負い続けた革新的プロデューサーでした。
写楽の才能を信じ、評価の定まらない中で大胆に刊行を進め、さらには身元を隠すため「偽の写楽」まで仕立てたという説も――その背景には、幕府の厳しい監視と、出版文化を守る意地がありました。
『ヤバい絵 狂気と創造―死ぬまでに観るべき日本の名画』(実業之日本社・2024・定家菜穂子 著)より、蔦屋重三郎の挑戦と覚悟、そして写楽をめぐる謎と策略に迫った本稿「番外編 蔦屋重三郎」を一部抜粋・再構成してご紹介します。
番外編 蔦屋重三郎 危険を冒して写楽を世に出した男(1750~1797年)
奴一平の用金を奪おうと、江戸兵衛が襲いかかろうとしている、「恋女房染分手綱(そめわけたづな)」の一場面である。
江戸兵衛は口を一文字に引き締め、相手を睨み付けながら、両手を広げて懐から突き出し、今にも奴一平に飛びかからんばかりの様子。
それに対し、一平は金を奪われまいとして、刀を引き抜こうとしている。
江戸兵衛の手の描写が不自然であるとの指摘があるが、この両手によって緊迫感が増し、作品の魅力となっている。
吉原案内、狂歌、戯作(げさく)、黄表紙、浮世絵など、幅広いジャンルの本を出版した江戸の版元、蔦屋重三郎。
最も大きな功績は、歌麿と写楽を世に出したことだろう。
だが、重三郎の置かれた状況は、決して順風満帆ではなかった。
寛政の改革で厳しい出版統制が行われていたのだ。絶版の憂き目にあった作品や、命を落とした者さえいたほど。
重三郎も例外ではない。喜多川歌麿の項で述べたように、幕府から目を付けられ、処罰の対象となっていたのだ。
そのような中で、重三郎は写楽を売り出そうとしたのである。
現代において、北斎、歌麿と並び称される写楽だが、その作品が発表された当時、評価はあまり得られず、大衆に受け入れられなかった。活動期間は一年にも満たない。
彗星(すいせい)のごとく突如現れ、忽然(こつぜん)と消えた写楽。
写楽は一体誰なのか。
何故、すぐに活動をやめたのか。
写楽の身許が隠された訳
写楽の正体については、多くの人々が様々な説を唱えてきた。
絵師だけでも、葛飾北斎、喜多川歌麿、酒井抱一、円山応挙、歌川豊国、谷文晁(たんぶんちょう)、司馬江漢(しばこうかん)、等々。蔦屋重三郎説まである。
しかし、現在では、写楽の身許について、ほぼ確定している。
俗称は斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべい)、阿波藩の能役者。
江戸八丁堀の地蔵橋のたもと、文人の村田晴海(はるみ) の隣に住み、文政三年(1820)三月七日、五十八歳で没す。
斎藤月岑(げっしん)が『増補浮世絵類考』で写楽の正体を明かしたのは、写楽こと斎藤十郎兵衛が亡くなってから二十年後、活躍時期からは五十年後だった。
写楽が活動していた時期に、素姓が明らかにされなかった理由。
それは、江戸時代の身分制度に起因する。
当時、歌舞伎役者は、大道芸人や旅役者などとともに、〈河原者(かわらもの)〉〈河原乞食〉という蔑称で呼ばれることがあった。
もともと、〈河原者〉とは、中世に河原に住んでいた人々を指す名称であり、皮革生産、染織など、さまざまな職業に従事していた。室町時代には、足利義政の寵愛を受けた善阿弥など、作庭に優れた者も輩出している。
だが、近世においても、厳格な身分制度のもと、かれらは士農工商の下に位置づけられ、不当な差別を受け続けていた。
歌舞伎役者も同様である。
出雲阿国(いずものおくに)が始めた歌舞伎は、初期には、京都の四条河原などで小屋掛け興行をしており、舞台が河原から離れた後も、この言葉が用いられていたのだ。
明治以降、政府の方針として、役者という名称が俳優と変えられ、歌舞伎役者の社会的地位が向上するまで、その風潮は続いた。
江戸時代、芝居と遊里は二大悪所とされており、役者と遊女は、他の身分の者と厳然と区別されていた。
狩野派や土佐派など、正統派の絵師たちにとって、役者の姿を描くことは禁忌(タブー)とされ、正統な画派の下に位置づけられていた浮世絵の画工が、役者絵を描いたのである。
旗本出身の浮世絵師である鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)や別章で取り上げた酒井抱一も、遊女を描いているが、役者は描いていない。
偽の写楽
では、もし、写楽が活動していた時期に、その身許がばれてしまった場合、どうなったであろうか。
写楽こと斎藤十郎兵衛はもちろん、主家である阿波侯にも累が及びかねない。写楽画すべてを刊行していた版元の重三郎も処罰の対象になりうる。
実際に、主家からの命令で執筆自粛に追い込まれた藩士がいる。
重三郎が出版してベストセラーとなった『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』の作者、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)である。
喜三二は秋田藩江戸留守居役であり、主家の佐竹家は、幕府から藩士の管理不行き届きであると咎められることを恐れたからだろう。
また、謎の死を遂げた藩士もいる。
戯作者、浮世絵師で、黄表紙と呼ばれる絵入り読み物の祖の恋川春町、駿河小島藩士倉橋格(いたる)である。
春町は松平定信から出頭を命じられ、病気を理由にお役御免を願い出た後、突然亡くなっており、主家と養父に迷惑がかかることを恐れて、自殺したのではないかと考えられている。
当時、幕府は厳しい出版統制を行なっていた。
重三郎は、寛政三年(1791)、山東京伝の洒落本三部作を刊行したが、風紀を乱すとして、重過料(罰金刑)を課されている。京伝は手鎖五十日。
その後も、別章で述べたように、重三郎と歌麿を狙い撃ちにするかのような規制をしている。
重三郎からしたら、再びお上の処分を受けたくない、と思うのは当然である。
頭の切れる重三郎のこと。何もせず、手をこまねいているはずがない。
では、どのような手段を講じたか。
偽の写楽を仕立て上げたのである。
これまで、第一期から第四期までの写楽作品において、第三期には贋作が含まれているのではないか、と囁かれてきた。冒頭の作品を含む、間判(あいばん)の十一点である。
浮世絵師の歌舞妓堂艶鏡(えんきょう)こと、江戸歌舞伎の狂言作者の二世中村重助に描かせたのではないかと言われているが、表記に初歩的なミスがあることから、それを否定する説もある。
誰が描いたにせよ、他の画工に描かせたものを、写楽作品として刊行しておけば、当局に写楽の身許を問いただされたとしても、写楽はその人物だと言い逃れすることができる。
では、重三郎は最初から写楽の正体を知っていただろうか。
答えは否だと思われる。というのも、第三期から偽の写楽を仕立てているからである。
当時、重三郎は江戸幕府から目を付けられていた。
出版前に写楽の身許を知っていたら、その作品を出すことを躊躇し、断念していたかもしれない。
また、出版するにしても、第三期からではなく第一期から、写楽の代役を立て、その作品を混ぜただろう。
写楽こと斎藤十郎兵衛は、浪人であるなどと偽りを言って本当の身分を隠していたが、後に重三郎も写楽の身許を知り、あわてて偽装工作をしたのではないだろうか。
「二代目坂東三津五郎(にだいめばんどうみつごろう)の石井源蔵(いしいげんぞう)」第一期
「大和屋是業二代目坂東三津五郎(やまとやぜぎょうにだいめばんどうみつごろう)の奴(やっこ)くが平(へい)」第三期

左「大和屋是業二代目坂東三津五郎(やまとやぜぎょうにだいめばんどうみつごろう)の奴(やっこ)くが平(へい)」第三期
By Tōshūsai Sharaku - Yamaguchi, Keizaburō (1994). Sharaku no Zenbō 写楽の全貌 (in Japanese). Tōkyō Shoseki. ISBN 978-4-487-79075-3., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=55167234
右「二代目坂東三津五郎(にだいめばんどうみつごろう)の石井源蔵(いしいげんぞう)」第一期
By Sharaku - This file was donated to Wikimedia Commons as part of a project by the Metropolitan Museum of Art. See the Image and Data Resources Open Access Policy, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58758011
(両図とも東京国立博物館蔵)
両図とも、二代目坂東三津五郎を描いたものだが、とても同一人物が描いたものとは思われないほど、第三期作品のレベルが低い。三代目市川高麗蔵(こまぞう)を描いたものも同様である。
嫌われた理由
多くの浮世絵師は、細判(ほそばん)の役者絵などから、その活動を始める。
歌麿でさえ、七~八年間、役者絵や読本の挿絵などの細かい仕事をこつこつと続けた後で、やっと一枚絵の美人画をまかされるようになった。
一般的な浮世絵師はこのような修業期間を経て、大きな仕事をまかされるようになるのだが、写楽はデビュー作でいきなり役者大首絵(おおくびえ)二十八図を重三郎の元から出している。
重三郎の写楽への心酔ぶりがよくわかる。
しかし、重三郎の全面的パックアップを受け、華々しいデビューを飾ったにもかかわらず、写楽の絵は思ったよりも売れなかった。
当時の役者絵は、モデルの容貌をありのままに描くのではなく、目・鼻・口などの特徴を誇張しながらも、最終的にはそれを美化したものであった。
しかし、写楽はその美化するという過程をすっ飛ばして、役者の容貌をありのままに描いてしまったのである。
役者絵は、本来、舞台の客寄せのためのものでもある。
客たちは現実を忘れ、ひと時の夢を求めて舞台を見に行く。それなのに、役者の容貌の欠点を見せつけられたら興ざめだ。
役者の側からしても、夢を売る商売なのに、それを壊されてしまっては、商売あがったり。
特に、美しさを売りにする女形は、薄暗い客席から遠目だと美しい女性に見えるのに、それを大首絵、アップにして、皺やたるみなどの欠点を暴きたてられたら、たまったものではない。
そのようなわけで、写楽の写実的な役者絵は、役者や客のみならず、興行側からも好まれなかったのである。
写楽「三代目瀬川菊之丞(さんだいめせがわきくのじょう)の田辺文蔵妻(たなべぶんぞうつま)おしづ」
歌川豊国(うたがわとよくに)「三代目瀬川菊之丞(さんだいめせがわきくのじょう)」

写楽「三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おしづ」(1794年、重要文化財、東京国立博物館蔵)
By Sharaku - Online Collection of Brooklyn Museum; Photo: Brooklyn Museum, 42.83_SL1.jpg, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10195464
三代目瀬川菊之丞は、当時、絶大な人気を誇る女形。その受け口は、彼の俳号にちなんで、〈路考口(ろこうぐち)〉と呼ばれ親しまれていた。
かれを描いた写楽と豊国の絵を並べてみると、その違いがよくわかる。
瓜実顔にふっくらとした顎と長い鼻筋といった特徴は、両者に共通しているが、豊国画にある華やかな美しさと色気が、写楽の絵には感じられない。
写楽の絵が、夢を見たい客、夢を見せたい役者、興行側の三者に好まれないのは当然であろう。
他の女形、中山富三郎(とみさぶろう)を描いた作品でも、写楽と豊国の違いは顕著だ。
モデルを美化した豊国と、顔の特徴を誇張した写楽。
こちらも豊国画の方が、客や役者に受け入れられたのは勿論のことである。
何故、忽然と消えたのか?
写楽の活動時期は、寛政六年(1794)五月から翌年の正月まで、一年にも満たない。
何故、写楽は活動を止めたのか。
それは単純に、売れなかったから、というのが最大の要因だと考えられる。
重三郎が大々的に売り出そうとしたものの、それほど反響を呼ばなかった第一期の写楽の大判錦絵。
写楽の才能に惚れ込んでいた重三郎は、何とか写楽を売り出そうと出版を続けている。
第二期からは、細判錦絵も出しているが、結局ヒットには至らず、第四期で刊行を終えた。
もう一つの理由として、写楽こと斎藤十郎兵衛が阿波藩の能楽師だったという点が挙げられる。
大名お抱えの能役者には、半年もしくは一年の非番があった。
斎藤十郎兵衛は、この非番の期間に、写楽として活動していたのだ。
もし、役者絵が大ヒットしたら、十郎兵衛は、阿波藩を致仕し、浮世絵の道に邁進しようと考えていたかもしれないが、その作品は大衆には受け入れられず、写楽はその活動をやめた。
だが、写楽の代役を立ててまで、その作品を世に出そうとした重三郎の情熱は称賛に値するであろう。